それでいい

本と映画を中心とした何か、気が向いたものだけ

人間失格 太宰治

非常に気取り、拗らせたイケメン主人公の一生。こう書くと一昔前のいわゆる「やれやれ系」に通じるものを感じます。しかしながらそれとは一線を画すのは、ここまで極端ではないながらも、誰しもが感じたことのある、混沌とした他者を恐れる心と蔑む心が巧みに描かれているからでしょう。他者を騙す、欺くという行為にはそれだけで優位性が存在します。君たちは気づかないだろうけど、という。人間失格とはどういう意図で名付けられたタイトルなのか、そう気になりながら読み進めれば、まったく我々とは違うのに、主人公にどこか不思議と共感してしまい、自己投影してしまう。

何かを演じるということは人にだけ与えられた能力なのかもしれない、そう思いました。人間にだけできる能力だからこそ、そこに優位性が宿るのだとも。事実、狂人認定されたのち、主人公はもう自身が人間失格であることを自覚するのです。だからこそそれまでも演技がバレたり、バレそうになったりした時に取り乱したのでしょう。自覚しているかどうかはわかりませんが、人は誰しも何かを演じながら生きている。家族の一員としての自分、学友としての自分、先輩としての、後輩としての自分。多少はあれど、時々にその様相を変えながら生活を営む。今作の主人公が周囲と比べ異質であったのは、その演じるという行為を騙す、欺くと捉え、本当の自分というものが存在すると錯覚したままにその行為を罪と捉えた点だと思います。実際、罪と罰という具体的なタイトルを数度繰り返し登場させたのはそういった意図があるとではないでしょうか。

別に私は太宰に詳しいわけではありません。知っているのは女性と自殺未遂を繰り返した末に、遂に亡くなったということくらいです。人間失格という作品を太宰の死と重ねて捉えれば、太宰自身、何かを演じるということを罪と捉えていたのではないかと思います。それなのにも関わらず、世間の人はそんなことに気づく素振りすらない。自分だけが異質な存在である中で、それでも人から孤立して生きることは不可能だという確信。矛盾した苦しみに対する踠きが伝わってきました。

すべて真夜中の恋人たち 川上未映子

簡単にいうなれば、今まで所謂”青春”とは縁遠かった主人公、入江冬子がちょっと遅れて大人になる物語、でしょうか。女性ひとりの強さというものが感じられました。どちらかといえば女性向けだと思います。

冬子は人間関係が苦手な故に、それをお酒の力で誤魔化すようになるというところから始まります。いわゆるアル中。カフェインと合わせると吐いてしまうんだとわざわざ設定した割に、あまりそれが活かされないまま終わったのは、ちょっともやもや。もしかしたら、急激にアルコール耐性が付いたという描写かもしれないが……

まず序盤までで感じたのは、過去形ばかりが続く表現がやっぱり僕は苦手だなということでした。コミュニケーションが苦手な主人公なので、会話もリズミカルでない部分が多く、慣れるまで、また物語が動き出すまではちょっとばかし我慢が必要でした。ただそんな難解な内容でもないので、耐えるのが辛いとまではいきません。あとは平仮名が多いところもちょっと。こちらに関しては登場人物の性格の表現などで使い分けていると思われるため、仕方がありませんが。

全体的には正直苦手でした。完全に、個人的で、勝手な感覚ですが、一見美しく見える意味深な文章が列挙されており、最初のうちは独特な感情表現だと思っていましたが、連続して使われると徐々に陳腐に感じられ、良さが損なわれているように感じてしまいました(それを書きたいがために小説を書いたかのような)。内容的にも本当にその設定は必要だったのかと思うところが多々あり、読んでいる最中、読んだ後にやはり、登場人物が人外陽のような、そんな感覚を抱いてしまいます。例えば冬子は校正の仕事に携わっていますが、おそらくそれは物語最終面で、初めて自分で言葉(タイトルそのままの言葉)を紡ぎ出したという展開にしたかったからでしょう。ただ他の場面では、校正自体に興味がないとほとんどそれに必要性を感じられませんでした(あまりにも言葉遣いを気にしなさ過ぎたり。いくら興味がなくても気になってしまう職業病があると思う)。初めてのセックスの描写も、とってつけたようなものに感じられてしまいます。伝えたいことがたくさんありすぎたのか、筋が一本通っていないような感覚。

内容については人それぞれなので、多くは書きませんが、淡々とした起承転結がはっきりとはしていない物語です。個人的にそれ自体は嫌いではないです。

人の、特に”陰キャ”の描き方は格別にうまいです。きっとこういう人がたくさん周囲にいたことがあるのかもしれません。自分が”陰キャ”だから書けるものではなく、客観的に見ないと描けないと思います。

錦繡 宮本輝

手紙というものは不思議な媒体だと思う。時限的ではあるが一方通行であり、なにより如何に未来を語ろうとも、それを読むころには過去から見た未来に過ぎない。手紙とは過去も未来も現在も入り混じった、不思議な空間なのだろう。

読者は最初から最後まで一貫して、星島亜紀と有馬靖明の手紙を盗み見る形を取っている。それは間違いなく禁忌であり、そうであるが故に読者は興味津々に物語に入っていく。実際、令子が「人の手紙を勝手によんだりでけへんもん……」と言っているときには、申し訳なくて仕方がなかった。そして物語、手紙が始まってすぐから多くの情報が提示される。二人が只ならぬ事件の末離れ離れになったこと、亜紀には子供がいること。しかしその顛末は読者は全くわからない。瀬尾由加子とは誰なのか、清高はいったい誰の子なのか。そんなことを考えてしまえばもうこの物語からは逃げられない。もしこれを週刊、月刊連載として読んでいたなら、今以上に虜になっていただろう。

靖明と由加子の出会いや再会、亜紀と靖明の再会。当然すべての事象は偶然的なのだが、作品中では特に偶然であることが強調されているように感じる。つまり運命的であるのだ。男女間の愛のお話に運命は欠かせないだろう。男も女も、そこに弱い。そして母として清高を育てること、令子とともに生きていくこと。翻弄してくる運命を乗り越えた意思というものも物語には欠かせないだろう。

美醜、愛憎、生死。二律背反の概念は一方が明るく、一方が暗いもののように捉えられる。もちろん二人もそんな考えに囚われていたのだが、一意にそれは二人が納得せぬままに離れてしまったからである。ジョジョの奇妙な冒険が僕は好きなのだが、そんな中に”納得は全てに優先する”という台詞がある。まさにこの通りなのだ。十年という空白を一年に満たない文通の中で埋めながら、二人は過去、事実を噛み砕いていく。「人間は変わって行く。時々刻々と変わって行く不思議な生き物たなァ」という星島照孝の言葉の通り、止まっていた時が動き始めると同時に、二人も変わり始めるのだ。

また非常に男女の情愛、好きという気持ち、色気を描くのも秀でていると感じた。幼さの中にある淫靡さ、成長して大人になってからもある幼さ、謎の多さという由加子の魅力。「お前なんか嫌いだ」という靖明に口癖と、それを知っていた亜紀と令子の対比。特に僕はこの「お前なんか嫌いだ」という台詞が出てくる手紙が好き。靖明の愛が令子に実は向いていることを、愛しているがゆえに靖明自身よりも早く気づいている描写が大好き。そしてその返事で、令子の中に亜紀を見出し、やはり亜紀のことも愛しているのだという描写も大好きだ。

一時は、靖明のことが憎くもあった(どうしてこの年代の男は浮気ばかりするのか!)。しかし実際靖明も傷ついていることは知っていたし、手紙を読み進めるにつれて、だんだんと同情し、ついに令子の「うち、あんたの奥さんやった人を好きや」という言葉でわずかに残っていた憎しみは霧散してしまった。人を愛した過去というものはまったくもって責められるべきではない。もちろん靖明が犯してしまった罪はどうしようもなく非道なことだけれど、それでもそれを責められるのはやはり亜紀だけなのだから、僕はなにも言えないのだ。実は僕は女に過去の男が、男に過去の女がいるという設定が好きなのだ。その人以上に、今主人公のことを愛していることは言い表しようもなく尊い想いのように感じられて。その人の過去のいろいろな感情ひっくるめて、登場人物を好きになってしまう。

僕には難しいことがわからないので、単なる感想をつらつらと書き重ねただけになってしまった。この感想から錦繡の魅力が伝わるかはわからないが、備忘録として残しておきたい。

僕自身、ここ最近じっくりと小説を読むことはなく、新書ばかり読んでいた。五年ほど前、大江健三郎の作品を読みふけって以来かもしれない(というのもその後読んだ村上や東野の文体があまりに合わず、徐々に離れたからなのであるが)。次も小説を読もうかな。

創作する遺伝子 僕が愛したMEMEたち 小島秀夫

なにも考えず、小島氏の名前と鮮やかな黄色のデザインに惹かれ手に取ったので、小島氏が好きなミームを紹介する本だとは知らぬままだった。僕はそれほど素直ではないので、紹介された中で実際読もうと思ったのは2.3冊程度。それも別に気になって仕方がないというものではなく、まあせっかくだし読んでみようか程度だった。それでもこの本には価値がある。一つには時代の違いをありありと感じられること。指を二、三動かせば海外のあらゆる情報を得られる現代と、50年前とではあまりにも状況が違う。良くも悪くも、今は進歩しすぎている。知らないものを調べず、まずは想像を馳せるという楽しみを久しぶりに思い出した。もう一つは単純に、誰かが好きな何かに触れるのは楽しいのだ。好きなものを語る時、独特の笑顔が本を通して感じられるというのは中々ない。そういう意味でためになった、感動したとは言えないが、確かに読んでよかったと言える。