それでいい

本と映画を中心とした何か、気が向いたものだけ

パプリカ(映画) 筒井康隆 今敏

UNEXTのおすすめに表示されていたので。前から見ようと思ってましたが、UNEXTにあったとは知らなかった。

 

夢と現実。エスと自我2つがあやふやになった世界の狭間。DCミニを盗んだ犯人を夢探偵パプリカが追う。

非常に熱狂的にファンがいる本作ですが、個人的には
・映像美

・夢というよくわからないものを、よくわからないものとして表現する奇妙さ、特にその変遷について

の2点がその理由なのかなと思いました。アニメーションでなくてはならない。だからこそ熱狂的なファンが多いのかなと。心に残るストーリーではないけれど、心に残るアニメではある。僕は小さなモニターで見てしまったのですが、おそらくこの作品は劇場の大きなスクリーン、大音量で、ポップコーン片手に見なければ魅力は半減どころではないでしょう。

 

他にはトラウマとの対峙であったり、題材そのものからしフロイトチックな感じだったと思います。

 

いやはや夢という世界は魅力的ですね。

デトロイト美術館の奇跡 原田マハ

アートは友達であり、家族である。最後に書かれた対談でのタイトルこそが本作の真髄かなと思います。

 

作中出てくる登場人物たちは一人を除き、全員、フィクションですが、まるで実在していたのではないかと思うほどリアルな描写。

そして多くの芸術作品に触れてきたキュレーターだからこそ書ける本物の(リアルな、身近なという意味で)アート。

 

僕はあまりアートには触れてこなかった人生なので、好きな画家といえばフェルメール一人くらいの超にわか、にわかというか芸術を知らない人。いつの日か、偶然の出会いが僕を芸術の世界へ誘ってくれること夢見たいと思います。

 

ミスト(映画) スティーブンキング フランク・ダラボン

胸糞悪いラストと聞いていたのでずっと見ようと思っていたのですが、長らく見ていなかったのをようやく見ました。

 

内容はもちろん演出に震えた……

いっちばん感心したのは、腰に紐を巻いてショットガンを取りに行ったおっちゃんのシーン。ただ単に紐を切るんじゃなくて、一旦緩ませた後、再び紐を張って希望を抱かせる緩急。そして決定的に触手生物の存在を知らせる人の腰とは思えない高さにあがった紐。

僕は映画のえの字を知りませんが、ここだけじゃなくてずっと緩急がついていて流し見するつもりがじっくり見てしまいました。空間の拡張も閉ざされたスーパーマーケットから、薬局へ行くためにちょうど半分、慣れてくるころに拡張されますし、見ていて飽きないなあと感心させられました。なにより霧で見えにくいから、スーパーマーケットの外は目を凝らして見なければならないというアクセントが効いてくる。全体を通しても「明かりのついたスーパーマーケット」→「明かりの消えたスーパーマーケット」→「霧に侵された薬局(ライトあり)」→「霧の世界(ライトなし、脱出)」とだんだんと視界が悪くなってくる。

しかもですね、スーパーマーケットで虫に襲われ、女性が刺されたとき、たぶん見ている人は「これ卵植え付けられたか?」と思ってしまうわけです。しかしただの毒だった、よかったよかったと。なのに外に出てみると、実際に卵を植え付ける虫がいるわけです。

そしてやっぱり騒がれてるオチ。オリーがサソリ型に襲われ銃を落としたとき、思わず「銃だけでも!」と思ってしまう。「やった!取ってくれた!」となるわけですが、それこそが悲しい結末のトリガーとなってしまう。銃を拾えなければ、全員助かっていたのに。軍が来るとともに霧が晴れていく絶望感といったらもう……二重の絶望ですよ。軍が来たから助かったかもしれないのにっていう「絶望」の中には、まだ霧が晴れず、世界が終わってしまうかもしれない「希望」があった。ああ、あの時殺しておいてよかったと思えるかもしれない「希望」。けれどその「希望」すら瞬時に打ち砕かれてしまう。ラストに、冒頭で出て行った母親が救出されていたのもまた、ね。

考えるべきはこの母親とデイビットたちの差でしょう。それはたぶん単純に「諦めないこと」でしょうか。母親は最初から最後まで子供たちの命の無事を諦めなかった。デイビットは?最後には諦めてしまった。ガソリンが切れたからもう終わりだと思ってしまった。もしかしたら、もうほんの数百メートル歩けば、霧から抜けられたかもしれない。車から出た後、あれだけ叫んで異生物が襲ってこなかったのだから、数百メートルくらいは歩けたはず。そのわずかな希望、可能性を捨ててしまったから、デイビットは息子を失ってしまった。

悲しい結末ではありましたが、胸糞ではない。尊厳というものを(もしくは食い散らかされる鈍痛という苦しみから逃げることを)重視しすぎて、希望を捨ててしまった末の不幸。あくまで胸糞ではないでしょう。

誰だよこの天才(あまり好きな言葉ではありませんが、これしか言葉が見つからない)監督、と思い検索してみると、ショーシャンクやグリーンマイルの人。そりゃ面白いわ。

正欲(映画) 朝井リョウ

映画(UNEXT)で見ました。

 

普通に迫害される多様性。そんな多様性を推進すべきだ!

なんて作品ではなく、現代において叫ばれる多様性、それは本当に「ホントウ」のマイノリティなのか?LGBTQは(もちろんまだまだ偏見はあると思いますが)昔と比べれば理解が進んできたでしょう。ではマイノリティはLGBTQだけなのか。全く理解されないような趣向というものは存在するのだ。表面的に多様性を叫び、その行為に満足する。それはかえって残酷なことなのではないか。当人たちに対し、お前は少数派ですらないと言っていることになるのではないか。少数派にすらなれないのなら、お前たちは多数派にならなければならない、そういう残酷な言葉を突き付けているのではないか。多様性=LGBTQになってはしまいか?そんなことを感じました。多様性って言葉をありがたがり過ぎて、本質的なことを見逃しているやもしれません。

本作では、水に対し性的興奮をおぼえるわけです。物語を読んだ、見た方には「水フェチくらい別にいいんじゃない?隠す必要ないじゃん」と思う人もいるかもしれない。じゃあムカデに尿道を這ってもらいたいという性癖なら?これも個人だからいいと感じるかもしれない。じゃあ他人の尿道にムカデを這わせたいという性癖なら?それも大丈夫なら次は?いずれそれぞれにとっては許容できないフェティシズムが出てくるのは当然です。

 

ここで終わらないところが個人的に本作の凄いところだと思います。

ではすべてを許さねばならないのか。答えはいいえでしょう。実際、水フェチの一人は児童買春という許されない犯罪を犯しています。そして主人公、寺井の息子は「多様性」という言葉に踊らされた寺井の妻たちに起因して、その被害者となってしまう。単純な「多様性」(本作ではYoutuberという生き方)を否定していた寺井の言葉に従っておけば、このような犯罪には確かに巻き込まれなかった。

 

そしてまだまだ物語は終わらない。

その逮捕に巻き込まれたただの水フェチ男性2人。二人は本当に水フェチなのだが、それは結局理解されない。もし寺井の息子が巻き込まれてなければ、過去の事例を知っていた寺井も少しは聞く耳をもったかもしれない。しかし「多様性」という言葉に騙されてしまった寺井がもうマイノリティの言葉を信じることはないのでした。

 

結局、最初に書いたような多様性という「言葉」をありがたがる人によって、両者とも被害者になってしまう。両者を隔絶したのは、そういった言葉だけをありがたがる人たちで、そして厄介なことに彼ら、彼女らはその自覚がないどころか、むしろ自分たちはヒーローだと思い込んでいる、「正しい」と思い込んでいる。「正しくいたいという欲」が彼ら、彼女らにそういった行動を取らせている。

さて、我々は理解できないものが眼前に現れた時、どうすべきか。また我々が理解されない欲を持ったとき、どうすべきか。

 

個人的には神戸さんが諸橋に対して「私は男の人は嫌いだけど、あなたのことは好きなマイノリティなの!」みたいなことを言うシーンが一番辛かった。もちろん辛かったのは上記の理由からです。もちろん彼女が苦しいのもわかるけれど。

一番好きなセリフは「普通の人も大変だな」です。もちろん桐崎

とわの庭 小川糸

夜空には、わたしだけの星座が、生まれ続ける。優しい言葉ですね。

帯からは想像もつかないほど重い話でした。想像を絶するような、しかしそれを捜索だとは簡単に否定できないような現実味のある苦難。人が持つ生きることへのエネルギーはそれはもう強いもので、目が見えなくても、母からネグレクトを受けても、初恋の人に利用されても、決してなくなるものではないんでしょう。どれほど辛いときでも、周りを見渡してみれば一人は手を差し伸べてくれる人がいるものなのかもしれませんね。

本作品で気に入っているところは、何といっても匂いや音の表現が多いところです。僕自身、そういった表現が見たくて本作を手に取ったところはあるので満足できました。

タイトル通り、庭というものを介した十和子と人の、母と魔女のマリさんと、リヒトと、ジョイとの繋がり。それらはいろいろな経緯はありますが、根本はとっても温かいものなので、そういうものが好きな方にはおすすめです。一方で、それらはやはりフィクションらしくあり、都合のよさは否めません。前半の辛い雰囲気が好きな方には後半は少々退屈に感じられるかもしれません(十和子があまりに強いこと、優しい人ばかりなこと)(少数派でしょうが)。個人的には前半が心に残った故に、後半が少々陳腐に感じられて残念でした。最後に母と会わないところは好き。

キネマの神様 原田マハ

あー映画みたいな、それも劇場の大きなスクリーンで、と思わせてくれる作品でした。そしてまるで映画を見ているかのような作品。

映画を好きという気持ちが父と娘を、父と母を、父と会ったこともない友人を(もちろんそれ以外にも社長とばるたん君とかも)繋ぐ。生きるぼくらでも思いましたが、やっぱり生きるっていうことをとても大切にしているように感じます。生きるって難しいけど、なにかを好きであることを大切にし続ければきっと神様のような奇跡が救ってくれる。

原田さんの作品はどれもハートフルでたくさん泣けるんですが、ご都合主義的な展開も多く、特にみんながみんな根は心優しいし、エンターテインメントとしての小説だなと思います。だけどそれがいい。他の作品はしりませんが。

生きるぼくら 原田マハ

24歳ニート、旅に出る。結構泣いてしまった作品。

僕が感じたのは只々、生きることはとても難しく、とても簡単だという一見矛盾した事実です。一人で生きてはいけない、しかし人と生きることは現代では大変難しい。ただし、一歩だけ踏み出してしまえば、あとは簡単だということです。

高校といえどそれぞれは利他の関係を基に人間関係を結ぶことがある。それはおそらく肉体的な(性的な意味ではなく)繋がりが希薄だからなのではないでしょうか。一緒に汗水を垂らして何かを作るという経験が少ないからではないでしょうか。多くの人はホワイトカラーの仕事を目指す。情報化機械化が進む社会では当然の傾向です。だからこそ物理的な何かを作る経験が必要なのかもしれません。何かを汗水垂らして(涙でもいいと思いますが)作ることは、必ず衝突が伴い、相手の心に入ることになります。

今作では生きることすら捨ててしまった人生が、生きることを学びながらつぼみやマーサさんたちの心に入り、入られ立ち直るまでのお話。はっきり言ってここまで書いたのは僕の妄想ですが、個人としてはそのように感じました。妄想を連ねるなら、おにぎりの作り方の対比もそういったことと対応しているのかなと思ったり。