それでいい

本と映画を中心とした何か、気が向いたものだけ

ミスト(映画) スティーブンキング フランク・ダラボン

胸糞悪いラストと聞いていたのでずっと見ようと思っていたのですが、長らく見ていなかったのをようやく見ました。

 

内容はもちろん演出に震えた……

いっちばん感心したのは、腰に紐を巻いてショットガンを取りに行ったおっちゃんのシーン。ただ単に紐を切るんじゃなくて、一旦緩ませた後、再び紐を張って希望を抱かせる緩急。そして決定的に触手生物の存在を知らせる人の腰とは思えない高さにあがった紐。

僕は映画のえの字を知りませんが、ここだけじゃなくてずっと緩急がついていて流し見するつもりがじっくり見てしまいました。空間の拡張も閉ざされたスーパーマーケットから、薬局へ行くためにちょうど半分、慣れてくるころに拡張されますし、見ていて飽きないなあと感心させられました。なにより霧で見えにくいから、スーパーマーケットの外は目を凝らして見なければならないというアクセントが効いてくる。全体を通しても「明かりのついたスーパーマーケット」→「明かりの消えたスーパーマーケット」→「霧に侵された薬局(ライトあり)」→「霧の世界(ライトなし、脱出)」とだんだんと視界が悪くなってくる。

しかもですね、スーパーマーケットで虫に襲われ、女性が刺されたとき、たぶん見ている人は「これ卵植え付けられたか?」と思ってしまうわけです。しかしただの毒だった、よかったよかったと。なのに外に出てみると、実際に卵を植え付ける虫がいるわけです。

そしてやっぱり騒がれてるオチ。オリーがサソリ型に襲われ銃を落としたとき、思わず「銃だけでも!」と思ってしまう。「やった!取ってくれた!」となるわけですが、それこそが悲しい結末のトリガーとなってしまう。銃を拾えなければ、全員助かっていたのに。軍が来るとともに霧が晴れていく絶望感といったらもう……二重の絶望ですよ。軍が来たから助かったかもしれないのにっていう「絶望」の中には、まだ霧が晴れず、世界が終わってしまうかもしれない「希望」があった。ああ、あの時殺しておいてよかったと思えるかもしれない「希望」。けれどその「希望」すら瞬時に打ち砕かれてしまう。ラストに、冒頭で出て行った母親が救出されていたのもまた、ね。

考えるべきはこの母親とデイビットたちの差でしょう。それはたぶん単純に「諦めないこと」でしょうか。母親は最初から最後まで子供たちの命の無事を諦めなかった。デイビットは?最後には諦めてしまった。ガソリンが切れたからもう終わりだと思ってしまった。もしかしたら、もうほんの数百メートル歩けば、霧から抜けられたかもしれない。車から出た後、あれだけ叫んで異生物が襲ってこなかったのだから、数百メートルくらいは歩けたはず。そのわずかな希望、可能性を捨ててしまったから、デイビットは息子を失ってしまった。

悲しい結末ではありましたが、胸糞ではない。尊厳というものを(もしくは食い散らかされる鈍痛という苦しみから逃げることを)重視しすぎて、希望を捨ててしまった末の不幸。あくまで胸糞ではないでしょう。

誰だよこの天才(あまり好きな言葉ではありませんが、これしか言葉が見つからない)監督、と思い検索してみると、ショーシャンクやグリーンマイルの人。そりゃ面白いわ。