それでいい

本と映画を中心とした何か、気が向いたものだけ

正欲(映画) 朝井リョウ

映画(UNEXT)で見ました。

 

普通に迫害される多様性。そんな多様性を推進すべきだ!

なんて作品ではなく、現代において叫ばれる多様性、それは本当に「ホントウ」のマイノリティなのか?LGBTQは(もちろんまだまだ偏見はあると思いますが)昔と比べれば理解が進んできたでしょう。ではマイノリティはLGBTQだけなのか。全く理解されないような趣向というものは存在するのだ。表面的に多様性を叫び、その行為に満足する。それはかえって残酷なことなのではないか。当人たちに対し、お前は少数派ですらないと言っていることになるのではないか。少数派にすらなれないのなら、お前たちは多数派にならなければならない、そういう残酷な言葉を突き付けているのではないか。多様性=LGBTQになってはしまいか?そんなことを感じました。多様性って言葉をありがたがり過ぎて、本質的なことを見逃しているやもしれません。

本作では、水に対し性的興奮をおぼえるわけです。物語を読んだ、見た方には「水フェチくらい別にいいんじゃない?隠す必要ないじゃん」と思う人もいるかもしれない。じゃあムカデに尿道を這ってもらいたいという性癖なら?これも個人だからいいと感じるかもしれない。じゃあ他人の尿道にムカデを這わせたいという性癖なら?それも大丈夫なら次は?いずれそれぞれにとっては許容できないフェティシズムが出てくるのは当然です。

 

ここで終わらないところが個人的に本作の凄いところだと思います。

ではすべてを許さねばならないのか。答えはいいえでしょう。実際、水フェチの一人は児童買春という許されない犯罪を犯しています。そして主人公、寺井の息子は「多様性」という言葉に踊らされた寺井の妻たちに起因して、その被害者となってしまう。単純な「多様性」(本作ではYoutuberという生き方)を否定していた寺井の言葉に従っておけば、このような犯罪には確かに巻き込まれなかった。

 

そしてまだまだ物語は終わらない。

その逮捕に巻き込まれたただの水フェチ男性2人。二人は本当に水フェチなのだが、それは結局理解されない。もし寺井の息子が巻き込まれてなければ、過去の事例を知っていた寺井も少しは聞く耳をもったかもしれない。しかし「多様性」という言葉に騙されてしまった寺井がもうマイノリティの言葉を信じることはないのでした。

 

結局、最初に書いたような多様性という「言葉」をありがたがる人によって、両者とも被害者になってしまう。両者を隔絶したのは、そういった言葉だけをありがたがる人たちで、そして厄介なことに彼ら、彼女らはその自覚がないどころか、むしろ自分たちはヒーローだと思い込んでいる、「正しい」と思い込んでいる。「正しくいたいという欲」が彼ら、彼女らにそういった行動を取らせている。

さて、我々は理解できないものが眼前に現れた時、どうすべきか。また我々が理解されない欲を持ったとき、どうすべきか。

 

個人的には神戸さんが諸橋に対して「私は男の人は嫌いだけど、あなたのことは好きなマイノリティなの!」みたいなことを言うシーンが一番辛かった。もちろん辛かったのは上記の理由からです。もちろん彼女が苦しいのもわかるけれど。

一番好きなセリフは「普通の人も大変だな」です。もちろん桐崎