それでいい

本と映画を中心とした何か、気が向いたものだけ

錦繡 宮本輝

手紙というものは不思議な媒体だと思う。時限的ではあるが一方通行であり、なにより如何に未来を語ろうとも、それを読むころには過去から見た未来に過ぎない。手紙とは過去も未来も現在も入り混じった、不思議な空間なのだろう。

読者は最初から最後まで一貫して、星島亜紀と有馬靖明の手紙を盗み見る形を取っている。それは間違いなく禁忌であり、そうであるが故に読者は興味津々に物語に入っていく。実際、令子が「人の手紙を勝手によんだりでけへんもん……」と言っているときには、申し訳なくて仕方がなかった。そして物語、手紙が始まってすぐから多くの情報が提示される。二人が只ならぬ事件の末離れ離れになったこと、亜紀には子供がいること。しかしその顛末は読者は全くわからない。瀬尾由加子とは誰なのか、清高はいったい誰の子なのか。そんなことを考えてしまえばもうこの物語からは逃げられない。もしこれを週刊、月刊連載として読んでいたなら、今以上に虜になっていただろう。

靖明と由加子の出会いや再会、亜紀と靖明の再会。当然すべての事象は偶然的なのだが、作品中では特に偶然であることが強調されているように感じる。つまり運命的であるのだ。男女間の愛のお話に運命は欠かせないだろう。男も女も、そこに弱い。そして母として清高を育てること、令子とともに生きていくこと。翻弄してくる運命を乗り越えた意思というものも物語には欠かせないだろう。

美醜、愛憎、生死。二律背反の概念は一方が明るく、一方が暗いもののように捉えられる。もちろん二人もそんな考えに囚われていたのだが、一意にそれは二人が納得せぬままに離れてしまったからである。ジョジョの奇妙な冒険が僕は好きなのだが、そんな中に”納得は全てに優先する”という台詞がある。まさにこの通りなのだ。十年という空白を一年に満たない文通の中で埋めながら、二人は過去、事実を噛み砕いていく。「人間は変わって行く。時々刻々と変わって行く不思議な生き物たなァ」という星島照孝の言葉の通り、止まっていた時が動き始めると同時に、二人も変わり始めるのだ。

また非常に男女の情愛、好きという気持ち、色気を描くのも秀でていると感じた。幼さの中にある淫靡さ、成長して大人になってからもある幼さ、謎の多さという由加子の魅力。「お前なんか嫌いだ」という靖明に口癖と、それを知っていた亜紀と令子の対比。特に僕はこの「お前なんか嫌いだ」という台詞が出てくる手紙が好き。靖明の愛が令子に実は向いていることを、愛しているがゆえに靖明自身よりも早く気づいている描写が大好き。そしてその返事で、令子の中に亜紀を見出し、やはり亜紀のことも愛しているのだという描写も大好きだ。

一時は、靖明のことが憎くもあった(どうしてこの年代の男は浮気ばかりするのか!)。しかし実際靖明も傷ついていることは知っていたし、手紙を読み進めるにつれて、だんだんと同情し、ついに令子の「うち、あんたの奥さんやった人を好きや」という言葉でわずかに残っていた憎しみは霧散してしまった。人を愛した過去というものはまったくもって責められるべきではない。もちろん靖明が犯してしまった罪はどうしようもなく非道なことだけれど、それでもそれを責められるのはやはり亜紀だけなのだから、僕はなにも言えないのだ。実は僕は女に過去の男が、男に過去の女がいるという設定が好きなのだ。その人以上に、今主人公のことを愛していることは言い表しようもなく尊い想いのように感じられて。その人の過去のいろいろな感情ひっくるめて、登場人物を好きになってしまう。

僕には難しいことがわからないので、単なる感想をつらつらと書き重ねただけになってしまった。この感想から錦繡の魅力が伝わるかはわからないが、備忘録として残しておきたい。

僕自身、ここ最近じっくりと小説を読むことはなく、新書ばかり読んでいた。五年ほど前、大江健三郎の作品を読みふけって以来かもしれない(というのもその後読んだ村上や東野の文体があまりに合わず、徐々に離れたからなのであるが)。次も小説を読もうかな。